前回→婚約指輪の価値を地に貶める行為
それは幸せになるコツとでも言おうか、心得とでも言おうか、心構えとでも言おうか、そういうことで思うことなのだが、よくキリストだとか仏陀だとか老子だとか、そういう聖人のありがたいお言葉にそういう内容があるので、なんか大げさな非現実的な話になってしまいそうで、そうならないよう、できるだけこじんまりした範囲で主旨を展開したいのだが、とにかく大げさなことでなく”欲するならまず与えよ”ということであろうと思う。
誰かに、幸せに”して欲しい”と願っている人というのは、基本的に一生、幸福感を感じられずに終わると思う。
人から何かをしてもらって、奉仕してもらって、心遣いしてもらって、得られる喜びとか充実感とかいった感動というのは、案外たかが知れたものである。
それよりも、自分が相手を喜ばせたい、幸せにしたいと欲して行動し、それによって相手が喜んだり幸せを感じていると実感できた時の感動というのは、劇的な感覚である。
この感覚をこそ自分の幸福感の中心に据えておかないと、人から享受することばかり望んでいると、ちょっとしたことで揺れ動いて不安定になるような、すごく浅い充実感の中でしか生きられなくなる。
この浅い感覚の中では、人はすぐに乾くので、どんどん新しい何かを求めなくてはならない。
それも自分がどうこうするのではなく、他人からどうされるか、どう扱われるか、どんな物をプレゼントされるか、どんな場所につれていってもらえるか、どんな言葉をかけてもらえるか、そんな自分でコントロールできない部分ばかり気にしないといけないスパイラルに陥る。
だから、乾いた心で悠長に相手の出方を任せていられない。
もう仕方ないので、相手が自分をどう喜ばせるかを、自分が相手に指図するしかなくなってくるのだ。
前回でいうところの、婚約指輪を自分で選ぶ悲しい女性が、その一例である。
相手が自分のことを、どう扱ってくれるか、何を選んで来てくれるか、どんな振る舞いをしてくれるか、そんなことを重心に考えては絶対にうまくいかない。
その先には失望しか無い。
相手が自分の無限の期待を、完全無欠に満たしてくれる可能性はゼロだ。
これは相手の愛情や気遣い、センスや魅力が足りないせいではない。
誰にもそんなことは不可能なのだ。
相手が自分にどう振る舞うか、ということへの期待値を、限りなくゼロに近づけていくことが、平和で安定した精神を保つコツであろう。
それはパートナーにたいしても、友人にたいしても、同僚にたいしても、親にたいしても、同じことである。
その上で、自分が相手に、何をしてあげたいかということに心を割いていれば、勝手に幸福というのは、いつのまにか目の前に広がっているものなのだと思う。
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