練習、とか、経験、というものは、質が伴わなければ何の意味も無い。
それをもっとも端的に感じるのは、自分の字の汚さだ。
パソコンで文字を打つことばかりで、字を書くという事がめっきり少なくなった世の中で、年賀状などでたまに直筆で文字を書き込んでみると、自分の文字の下手さ加減にうんざりする。
しかし文字を書く事がめっきり少なくなったとは書いたが、私が幼稚園の頃から今まで、一体何万文字何十万文字という文字を、この手で書いてきたか知れない。
それだけ膨大な練習を日常的に繰り返してきたはずなのである。それにしては下手すぎやしないか?
薄々感づいてはいたが、文字の下手さは、私が中学生の頃からまったく変わっていない。
つまり下手な文字を何万文字書き続けても、だんだんうまくなるということは一生無いのだ。
それと同じ事が、あらゆることに対応させて言うことができる。
美味しく無い料理を何度作っても、味はまずいままであり、ギターで汚いコードをかき鳴らし続けても、その和音は濁ったままであり、まずい会話をなんど繰り返したところで、コミュニケーション能力がだんだん上がっていくということは無い。
そこに、何か一つで良い、ささやかな、現状、自分の能力を、1ミリで良いので越えようとする工夫があってはじめて、練習というものは成立し、それを繰り返すことでしか成長は、永遠に止まったままになるのではないだろうかと。
さらに言うならば、汚い字を書くということは、0の練習ではなく、マイナスの練習であり、成長どころか、退化するのでは無いかとさえ思っている。
それが文字の清濁くらいならまだ良いのだが、もっと重大な事も、日々無自覚にマイナス経験を繰り返して、成長から自分を遠ざけるような事をしているのかもしれない。
汚い文字を書くということはつまり、汚さの練習をして、より確実にしっかりと、安定した汚い文字を書くように出来上がっていくということだ。
なんでも経験を積めばそれで良いというものでは無い。
それは年長者、人生を60年、70年生きている人を見つめると、また顕著に感じることでもある。
自分のように30年そこそこといった程度では現れ切らない、経験の質の良悪が、60年積み重ねると、恐ろしいほどに出てくる。
魂が芯から腐ってしまっている人というのが、私の周りには確かに居る。
それはきっと、生まれた時には一切なかった汚れであり、20歳の時点、40歳の時点を比べると、あらゆる経験を積んで清濁併せ持ちながらもだんだん上がっていくはずだった魂は、汚さの練習を積み重ねてどんどん薄汚れていったのだろう。
汚い文字を書くくらいなら、まだ書かないほうが良い。
それが経験というものの本質では無いだろうか。
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