昨日からの続きでよければ。
完璧な人間は居ない、という所で終わっていた。
さてさて、相手が素敵な分だけ、自分が幸せを感じられる、と思っていたらきっと、どんな相手と一緒になってもすぐに無いものねだりが始まると思う。
もう少し優しければ、もう少し気が利けば、もう少し稼ぎが良ければ、もう少し顔が良ければ、もう少し気さくだったら、もう少し趣味が合えば、もう少し楽しそうだったら、もう少し才能があれば、もう少しセンスが良ければ、もう少し大事にしてくれたら、もう少し聞く耳を持ってくれれば、もう少し怒らないでくれたら、もう少し物事に感動してくれたら・・・
ダメ出しは、やろうと思えば永遠に出来る。人というのは欠陥だらけで、世の中は見方によってはドロドロの地獄だ。
それでもその中で似た者同士が惹かれ合い、一緒になったのなら、もう齢30、40になっても治らない欠陥には目を伏せて、お互いに有る部分だけを分かち合えば良いのでは無いだろうか。
人は似た者同士が惹かれ合うというのも、やはりそれは、共感することが幸せだからだろう。
討論に議論を重ねて日々お互いの至らない部分を責め合って、石と石をぶつけあうように火花を散らしながら身を削るような思いで自分を磨かなければいけない環境にある家庭など、例えどんな高みに登れたとしても御免である。
結婚や子育てを”修行”というような言葉で表現する人もいるが、おそらく修行のような過酷なものにしているのは、その人本人なのだと思う。
相手の無い部分に手を伸ばすのは、ひたすら自分を不幸に陥れる自虐行為だ。
そこまでしなくても、そこまで自分や相手を磨き上げた後でなくとも、今のままでも幸せになっても良いはずなのだ。
さてこれが、幸せは案外近くに転がっているのでは無いか、ということについての論で、ひいては世界中に別荘を何個も持つ大富豪にならなくても、幸せになって良いという理由であり、幸福感は千差万別では無く一つの感覚に根ざしている、要は何を手に入れようが”共感”が手に入らなければ話にならない。という話であった。
これで一旦逸れた”幸せについて”というテーマを回収し”物欲”の話に徐々につなげて行きたいのだが。
家を買う、という行為は物欲の一貫で、それそのものは幸福感などにはなんら寄与しないということを、以上のような理由で私は主張したい。
マイホームが”夢”だと印象付けられたのは、つまり”家”は”幸せな家庭”の象徴だからだろう。
しかしその象徴を飛び越して幸せな家庭が築けるのならば、別にマイホームは要らない。
そういう、物欲から開放されたほうが生きやすいという事について、夢、とか幸せ、とかいうものの実現のためには、努力は必要かもしれないがお金は要らない、という観点から書いてみたい。
だが、それは明日にしておく。
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